日鮮海運株式会社
公開日:2026.09.15
INDEX
「自らの依って立つ地を活力の源とせよ」
村上水軍の理念を継承し、船主業の永続と郷土の発展に貢献する
−製塩を支える運搬業として創業−
創業者は曽祖父の兼吉で、私は4代目です。祖父・祖母から聞いた話ですが、元々、本家が所有していた船の船乗りでした。伯方は江戸時代から製塩の盛んな地で、明治の初め、製塩業者が燃料とする石炭や製品の塩を船主が運搬するようになりました。塩は北前船の積荷として北海道へ運ばれており、当社の歴史に刻まれています。
兼吉は1889年(明治22年)に20トン積みの中古船を購入し、石炭や砂、製品の塩などを運搬し始めました。これが当社の創業です。伝統的な入浜式塩田で塩を作るには、塩田の砂を半年に一度くらいすべて入れ替える必要があり、船主は荷物の運搬だけでなく、砂の入れ替えも行って製塩業を支えていたそうです。
−神戸で見た大型船に憧れ、社名の由来に−
1923年(大正12年)に兼吉が亡くなり、海運業は一旦中断しましたが、2代目の祖父・國夫が1932年(昭和7年)に「金吉丸」を購入して再開します。
大正末期頃から製塩方法は流下式が主流になると塩田の仕事が減った一方、住友関係の荷物を扱うようになりました。別子や四阪島の精錬所や高砂(兵庫県)などの拠点間で銅鉱石や肥料、薬品、生活物資などを運んでいたようです。
あるとき、國夫は新居浜の住友機械(現在の住友重機械工業)で造られた輸出用クレーンを神戸まで運んでいました。積替えで神戸港に停泊していた5、6千トン級の大型船を見て「いつかこんな大きい船を持つような会社にしたい」と思ったそうです。その船の船名は「日鮮丸」といい、当社の社名はここからつけられたと、祖父から聞きました。
−第二次世界大戦で再び船主業を中断−
第二次世界大戦になり、1942年(昭和17年)に國夫が徴兵されると保有船も売船し、再び海運・船主業を中断します。
伯方の機帆船は1940年(昭和15年)頃のリプレイスブームで新しい大型の船が多く、300~400トン級の船で南方や樺太・千島などに行って、軍の物資を運んでいました。当社も木造船を何隻か保有していました。船頭・船員は「戦争が終わったら、この船でまた頑張るんだ」という意気込みで、みんな戦地に行ったようです。しかしながら、途中で撃沈されたり、目的地に着いても空襲にあったりして、伯方島は船と男手をほとんど失いました。幸運なことに、祖父は内地勤務となり、戦禍を免れることができました。
同じ船どころの波方(現在の今治市波方町)は、伯方と船主の数も隻数も同じくらいだったようです。波方船主の中には、保有船が老朽化していたため「船より命が大事」と、地元に残った者もいたと聞いたことがあります。どちらも、その時代の困難に真摯に向き合った結果です。
戦時中のエピソードとして、1942年(昭和17年)、当時の伊豫合同銀行伯方出張所(現在の伊予銀行伯方支店)に祖母が出向き「担保はないけど、親子4人が船に乗って必ず返す」と頼み込み、融資を受けて木造船を造ったという話が残っています。その後、時代の流れの中で関係が薄れた時期もありましたが、戦前から今に至るまで、伊予銀行の支援もあって当社は成長することができました。
1947年(昭和22年)、伯方島に戻った祖父は80総トンの中古船を購入して海運業を再開します。戦後復興で経済が動き初め、荷物の需要が増えました。当社も1951年(昭和26年)に150総トン、翌1952年(昭和27年)に300総トンの貨物船を新造しました。この時代はまだ木造船でした。
first ターニングポイント1 檜垣俊幸氏の勧めで鋼船を建造
−会社発展に貢献した鋼船−
3隻体制になって数年が経ち、1957年(昭和32年)には、400総トンの木造の機帆船を新造する計画がありました。ところが、それを聞いた神戸の海運会社の役員さんが「それなら鋼船にしたらどうか」と提案したそうです。ちょうど同じ頃、今治造船の檜垣俊幸さん(現グループ社主)が訪ねてこられ、「木造船は時代遅れになる。どうせなら鋼船にしなさい」と熱心に勧めてくれたそうです。檜垣さんが勧めてくれたのは600DWT級の貨物船です。
1958年(昭和33年)、今治造船で建造した鋼船の第一船「日鮮丸」(411総トン/750DWT)が竣工します。伯方島では伯洋汽船が先行して鋼船を建造していましたが、それに次ぐ鋼船です。船名は、祖父が憧れていた「日鮮」です。「日鮮丸」と「東京タワー」は偶然、同じ竣工年です。高層建築のない当時、芝浦ふ頭からは、できたばかりの東京タワーがひときわ高く見えたそうです。
翌年、1959年(昭和34年)には、個人経営を改めて日鮮海運株式会社を設立、以降、1963年(昭和38年)に「日洋丸」、1964年(昭和39年)に「日照丸」と計3隻の鋼船を今治造船で建造しました。
−船主業に専念、かたや「島の便利屋」−
1963年(昭和38年)に機帆船はすべて売却し、今治造船で建造した鋼船だけになりました。祖父ら家族も乗船せずに陸上で船主業に専念していました。最初の傭船先は別子銅山・住友にルーツをもつ中央汽船(現在の第一中央汽船)でした。
一方、祖父は伯方町の町議会議員として、「道路を拡げてほしい」といった住民の要望を聞き入れ、それを実現していきました。住民同士の問題になれば調整役となり、「島の便利屋」のような役割も担っていました。島というか伯方町に対する想いが強かったからできたんだと思います。
second ターニングポイント2 父の急逝、新たな舵取りの決意
−外航への進出、三井物産との関係強化−
当社が外航に進出したのは、1965年(昭和40年)の近海船からです。6,000総トン~10,000総トンくらいまでの船をすべて今治造船で建造し、主に東南アジアからの材木を運搬しました。1970年(昭和45年)頃からは20,000総トン以上の大型船で北米航路に就航しました。今治船主が遠洋に進出し始めた時期です。主な積み荷は、材木や小麦などが主流でした。日本が高度経済成長期で住宅用の木材やパンの原料にする小麦などの輸入需要が増えたからです。
1983年(昭和58年)頃から三井物産との関係が深まっていきました。外航船では、商社との関係が重視されます。荷物の確保だけでなく、売船や中古船の商いなどには複雑な交渉も発生します。それまで、多くの商社と取引していましたが、先代社長の父・和好は、三井物産1社に絞りました。かつて三井造船や常石造船を紹介してくれた信頼があったからです。商社は1社取引にしたほうが、相手も本気で値を譲歩してくれます。その判断が当たり、以来、三井物産との関係は深まり、今ではLNG運搬船の建造やエネルギー転換への投資で重要なパートナーとなっています。
−船員経験を船舶管理に活かす−
私は子どもの頃からボート(伝馬船1))遊びが好きでした。波が高いときでも海に出てボート遊びをしていたので、「家にいなければ、ボートを探せば見つかる」と言われていました。何より海が好き、船が好きという思いが高じて弓削商船高等専門学校へ進学、卒業後は大阪商船三井船舶(現在の商船三井)に入社して7~8年ほど外航船の航海士として勤務しました。やっぱり船乗りになりたかったんです。
最近では、乗船経験のある船主はほとんどいなくなりました。船舶管理はシステム化され、管理会社も活用すれば、日常的な運行管理や事務は問題なくできます。ただ、船の状態を目利きしたり、リスク管理や経営判断などを行ったりするとき、私自身が船や航海の技術を熟知していることが強みになっていると思っています。船主の子弟が勉強のためにオペレーターに就職するケースもみられます。しかし、そうした経路では船の技術がなかなか身につきません。むしろ、造船所や舶用機器メーカーなどで実務経験を積んで、親の経営を継ぐ方が、より強い経営基盤が作れるのではないかと思っています。
1)
沖合の大型船と陸地の間で人や荷物を運ぶ木造の小型船。
−伯方島の友好船主−
父は伯方島の船主の外航進出を後押ししてきました。呼びかけ始めた頃、外航進出した船主仲間は4、5社でしたが、今は15社くらいまで増えました。当社は「敵は世界、島にはいない」という信念の下、島の船主仲間との関係を大切にしてきました。時には切磋琢磨するライバルでもありますが、世界という強敵に立ち向かう時には一致団結する。そうした信頼関係が、伯方島の海事産業の持続的な成長を支えています。
島には飲食店も少ないので、夜飲みに行くこともない訳で、必然的に船のことを考える時間が長くなります。他地域の船主の中には、不動産業などへ事業を拡大した方もいます。しかし、船主は海運のプロであって、不動産経営のプロではありません。そのため、創業者の代では成功しても、2代目以降は経営が続かないことがあります。本業に専念することが、船主業の本筋と言えるでしょう。技術とノウハウの継承を通じて、世代を超えた安定経営が実現できるのだと思います。
−先代社長・父が急逝し、社長に就任−
大きな転換点となったのは、2005年(平成17年)に父・和好が75歳で急逝したことです。私はその
1年半くらい前から経営の一部を任されていて、大型タンカー(VLCC)の商談も自分で手掛けるようになっていました。でも、父の突然の死は覚悟していた以上の衝撃でした。
「親父が元気やったら、やりたいことはもっとあっただろう」−そう思うと同時に、「中途半端に生きとったら、親父に申し訳ない」という気持ちが湧いてきたんです。ちょうど同じ頃、小泉純一郎さんが総理大臣在任中の雑誌記事で、小泉さんの親戚の方が特攻隊として若くして戦死したという記事を読んで、「親父の死を無駄にしてはならない。だから中途半端な経営はできない」と心に決めました。それからは「やりたいことは遠慮せずにやる」というのを信条にし、経営方針を見直し、事業構成・保有船もバルカーの比率を抑えて、代わりにタンカーやコンテナ船などへ投資をシフトしました。当社独自の競争力のある船団を作るという、新しい挑戦だったのです。
しかし、父の後を継いで大きな経営判断を下すたびに、葛藤が生まれました。「本当にこの決断は正しいのか。父だったらどう判断するのか」と、家族や社員の顔を思い浮かべながら、一人で問い続けていました。
父とのエピソードでもう一つ忘れられないのは、急激な円高の時期です。これは1990年代の経験でしたが、業績が厳しい時でも「船は必ず動く」という父の信念を守り、保有船を手放さずに辛抱強く耐え抜き、それで危機を乗り越えられたんです。
third ターニングポイント3 船主業を軸としたグローバル戦略
−事業領域の拡大とリスク対応−
父の死という大きな喪失を乗り越え、「やらんもんはやらん、やるもんは徹底してやる」というメリハリのある経営に大きく舵を切りました。
シンガポールに100%出資の船舶保有・管理会社を作ったのも大きな決断です。相続税をはじめとする国内の税制や事業承継の課題を見据えて、海外拠点として独立した会社形態を持つことで、経営の選択肢を広げようと思ったのです。厳しい税務調査も受けましたが、その正当性が認められ、国内での納税もきちんとやりながら、事業を多角化させています。
また、中国での船舶修繕ヤード事業への出資も大きな挑戦です。日本国内には船の修繕専用ドックがほとんどありません。新造船建造に切り替えた造船所が多く、修繕ドックの不足は業界全体の問題になっていました。私はシンガポール法人を通じて中国の修繕ヤードに資本参加し、自社船だけでなく、伯方島の友好船主やヨーロッパの船主にも使ってもらえる体制を整えました。
当社は冷凍船を多数保有しており、バナナなどの生鮮食品を低温保持して輸送することで、世界の食を支える使命を果たしています。さらに、その輸送をより持続可能にするため、西アフリカのバナナ農園のパートナー企業とは、太陽光発電やバイオメタノールなどの新エネルギー開発に取り組んでおり、将来、当社の船の燃料を自ら生産する構想を描いています。
パナマでは、大統領のご案内で現地農園を視察し、バナナやカカオ、パームオイルなどの農産物を新鮮なまま輸出する事業に参画しています。同時に、輸送体制全体の整備を目指して、物流ネットワークの構築や港湾の近代化などにも協力しています。
事業環境を注視することの大切さは、コロナ禍で改めて実感しました。最初は物流停止を懸念していました。しかし、経済が再開する過程で、荷主が在庫確保に動き、海上輸送の需要が爆発的に増えたのです。その結果、コンテナ運賃は数倍に跳ね上がり、海運業界にとっては想定外の好況となりました。また、最近は中東情勢の緊張が高まったことで、原油・石油製品の輸送には需要があります。しかし、ケミカル分野は市況が弱く、業界全体としては不確実性が高まっていて、地政学リスクへの対応力強化が求められています。
造船業界を見ても、中国がものすごい勢いで生産能力を拡大しています。日本も10年で能力を倍にする計画を掲げていますが、私は「静かに、着実に力をつけていくべき」と思っています。組める相手とは国籍問わず手を組みながら、日本の海事産業全体を底上げしていくことが大事なのです。
−省エネ船についての持論−
環境問題は海事産業にとって重要なテーマです。船の燃料に関して、重油とLNGによる「デュアルフューエル」船が当面の主流のように言われていますが、すべての船舶がLNG対応できるわけではなく、私は今ある技術を駆使した省エネ船の重要性を主張しています。当社は環境対応新燃料が定まるまで「Today's Best」(足下で実現可能なエコ船)として、最新鋭の重油燃料船へ投資を進めており、燃費向上に有効な風力推進補助装置を手掛けるオランダの舶用機器メーカーに出資もしています。こうした複層的な取り組みが、過渡期における現実的な環境対応だと考えています。
−偶然の発見−
一方で最近力を入れているのが「ゲートラダー」という革新的な舵システムです。舵は船尾の真ん中、プロペラの後ろに置くのが当たり前だったのですが、ゲートラダーはこれを左右に開いた門のような形にして配置する全然違う発想の装置です。ゲートラダーは、栗林商船前会長の故・栗林定友氏と、同社研究開発室室長で英ストラスクライド大学名誉教授の佐々木紀幸先生によって2012年(平成24年)頃に考案されました。当社はこの革新的技術の普及・サポートをするため、2025年(令和7年)に合弁会社を設立しました。
きっかけは偶然の発見だったようです。佐々木先生によると、ヨットの帆が斜めから風を受けて前に進む原理にヒントを得て、「舵をプロペラの横に置いたらどうか」と思いついたそうです。
−開発者との協業と特許戦略−
実用化までは平坦な道のりではありませんでした。小さな水槽実験では十分な効果が出ず、担当者が「効果なしです」と正直に報告したこともあったようです。でも、実際に内航の貨物船に載せて試運転をすると、想定を上回る14%もの燃費改善になったのです。理論値だけでは説明のつかない実海域での大きな性能アップでした。
普及の過程では、現場の船長から戸惑いの声もたくさんありました。舵を切った時の挙動が今までと違うので、「舵が効かない」と感じることがあったようです。実際には従来型より直進性が高く、無駄な減速をしないので、その体感の違いが不安に感じられたんですね。思わぬ早着や急制動が起こるなど、ゲートラダーの特性も現れたそうです。ゲートラダーは従来型より立ち上がり、つまり加速が早くて、舵を切っても速度が落ちにくいという特性を船長・船員に認識してもらうことで、評価が徐々に高まっていきました。
ゲートラダーの技術は、特許を独り占めせずに業界内で広く共有していく方針を取っています。
海外の大手エンジンメーカーにライセンスを渡したのも、海外などで模倣されるのを防ぎ、発案された佐々木先生の権利を守るための戦略的な判断でした。国内の主要な造船所や同業の船主にも情報を開示し、「日本の海運・造船業界全体の底上げにつながるよう、この技術を普及させることが責務だ」と考えています。
これからは大型のケープサイズバルカーにも展開していく予定です。デュアルフューエル船と組み合わせれば、エンジンや燃料タンク、プロペラなどの関連機器全体を小さくできるので、次世代省エネ船の柱になると期待しています。
未来に向けてNEXT 伯方島に根ざす船主業とまちづくり
−代々受け継がれる地域貢献の考え−
当社の経営は、単なる海運事業だけではありません。私の中には、祖父や父の影響がずっと生きています。前に述べたように祖父は「島の便利屋」と呼ばれるくらいの世話役をやっていました。見返りを求めないことで、島の人からは信頼を集めていました。父も友好船主を増やし、伯方島の外航船主の成長に貢献しました。
私もその姿勢を受け継いで、2009年からは「バリシップ」の開催に深く関わっています。造船・舶用・海運関連企業が集まるBtoBの展示会から始まりましたが、一般の人にも海事産業に興味を持って
もらい、地元出身の若い人がいつか今治に戻ってきてくれるきっかけを作りたいと思い、最終日は一般公開も行っています。
船の商談は決断さえすれば、すぐに決まります。でも、人を育てて地域に根付かせるということはその何倍も時間がかかる仕事です。従業員やその家族が安心して暮らせる環境を整えることは、船を動かすのと同じくらい大事なことです。目先の数字だけに一喜一憂せず、長い目で伯方島での船主業と地域貢献を続けていこうと思っています。
−2026年「伯方島テラス」オープン−
伯方島のまちづくりの取り組みとしては、今治市伯方支所跡地に今年オープンした新たな複合交流拠点「伯方島テラス」があります。「バリシップ」のようなイベントだけでなく、島に人が集まってそこに根付く拠点を造りたいとずっと思っていました。若者が戻ってくるきっかけにもなってほしいし、島外から訪れる人にも、伯方島の良さを知ってもらいたいという想いから、カフェや宿泊施設も設けました。
船主業と違い、こういうハコモノは形になるまで本当に時間と労力がかかりましたが、これも次の世代につなげていくための土台づくりのひとつだと思っています。
−村上水軍の教え−
当社の経営を支える根底にあるのが、村上水軍から伝わる教えにある「自らの依って立つ地を活力の源とせよ」いう言葉です。自分の原点や源泉を大事にし、その地を拠り所とし、活動と成長を続けよ、という哲学です。伯方島に根ざして経営を続ける当社のあるべき姿だと思っています。
こうした教えの下、当社の経営は、「地域との共生」という一本の軸で貫かれています。船主業の成長と伯方島の発展は、一体不可分です。本業を守りながら新しい挑戦を重ねることで、この島全体を元気にしていく。これが当社の針路であり、変わらぬ決意なのです。
(文責 IRC)
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