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各種調査レポート

学校法人河原学園

THE COMPANY

学校法人河原学園

公開日:2026.01.07

いよぎん地域経済研究センター

家庭教師を経て学習塾「松山英数学館」を開設

 私(創業者・河原学園総長 河原次瞭)は、もともと人を教育することが好きで、県立工業試験場の越智猛夫氏(元東北福祉大教授)の研究室で助手をしながら家庭教師をしていました。1960年代(昭和30年代半ば~40年にかけて)は団塊世代が中学校や高校に進学する時期で、受験ブームの助走期でもあり、その子たちが指導の対象でした。何人も掛け持ちするようになると、各家庭に訪問するのは非効率だと考え、学習塾の形態で『松山英数学館』を1962年(昭和37年)に開設しました。
 同時に、優秀な人材を育てるためには、何歳から、どういう教育をすればいいのか、といった研究に没頭し、「教育は小中学校よりもっと早い段階、幼児期からしっかり行わなければならない」という考えにたどり着きました。そして1973年(昭和48年)に愛光幼児教育研究所を立ち上げて理論化を進め、実践と深化の後、1975年(昭和50年)に愛光幼稚舎を開園しました。

愛光幼稚舎第1期生と園長 河原次瞭(中央)

偶然から始まった専門学校教育への道

 現在の新潟総合学園などを創設した池田弘氏との出会いがなければ、専門学校は設立していなかったかもしれません。
 石川県羽咋市で『日本の教育を考える会』の講演会・シンポジウムがあり、登壇するソニー創業者の井深大氏より招待を受けて赴いた際、同部屋になったのが池田氏でした。その時は、彼が途中で帰ったので名刺交換程度で終わっていました。
 2年後、池田氏から連絡があり、「専門学校の件はどうなりました?」と言うのです。実は、専門学校設立を提案されていたのですが、私はそのことを忘れていたのです。忘れていたという後ろめたさもあり、この提案に乗ることにしました。
 1980年(昭和55年)頃から世にコンピュータが出回り始め、情報化時代の兆しが見えたことから、そうした変化に対応できる人材を育成しようと考え、1985年(昭和60年)に学校法人河原学園を設立し、翌年4月、情報処理本科など6科を置く『愛媛電子ビジネス専門学校』を松山に開校しました。

松山校開校当初の外観

時代に合わせて教育分野を拡大

講師集めと卒業生の就職先確保に苦労

 設立当初の生徒集めは順調でした。県立高校校長などを歴任された兵頭保氏が本校の校長に就任し、県下の学校に周知してくれたおかげで、初年度は定員120名に対し約360名の応募がありました。せっかく校長が回ってくれたのに「受け入れられません」ではいけないので、予定を上回り応募者を受け入れました。結果として校舎は初年度で満杯となり、次年度の受入校舎がないという事態となりました。慌てて隣地所有者と交渉し、土地を購入しました。
 苦労したのは講師集めです。時代背景もあり、教えられる人材そのものが少ないうえ、給料も通常の職員の2~3倍の水準を要求されます。大きな格差をつけるわけにもいかず、どこで折り合いをつけるか調整に苦心しました。
 卒業生の就職先確保も課題でした。「専門学校は和裁・洋裁をする所だろう?」、「初任給は高卒扱いか、大卒扱いか?」など、そもそも専門学校の存在や位置づけが企業に十分認知されておらず、1つひとつ説明して回る必要がありました。そのような中、いよぎんコンピュータサービス(ICS)には卒業生を多く採用してもらい、ありがたかったです。

開校当初の授業の様子

時代のニーズに合わせ専門課程を拡大

 1990年(平成2年)に、2校目となる『国際電子ビジネス専門学校』を新居浜市に開校しました。新居浜には桃山学院短期大学がありましたが、閉学が決まっていました。行政から要望もあり、若者の流出防止の観点からも進出を決断したのです。新居浜は住友グループをはじめとした工業主体の街でしたから、コンピュータの浸透が早かったのでしょう。約600名の卒業生を地元就職につなげることができました。
 新たな分野の専門学校として1995年(平成7年)に開校したのが『愛媛医療福祉専門学校』です。老人福祉法の改正により施設介護化が進み、介護士のニーズが増えてきたことが背景にあります。
 この他、2000年(平成12年)以降はデザイン・漫画・アニメ系やペット系、医療系、美容系、調理・製菓系などの人材を養成する専門学校を続けて開設してきました。幅広い分野において都会と同レベルの専門教育を地方で学べて資格を取得できることは、保護者にとって出費の節約にもなりますし、何よりも若者の人材流出防止につながります。

通信制高校の開校

 1990年代、学校の不登校児童生徒数が著しく増加しました。2000年代に一時的な減少期もありましたが、その後再び増加に転じ、2024年度(令和6年度)は過去最多となっています。
 不登校になる原因はさまざまですが、当学園としてもその事実に胸を痛めていました。「世の中の発展のために自分たちが仕事をすることで生きがいを感じ、幸せな人生を送れるようにしてあげたい」という一心で、広域通信制の『未来高等学校』を2007年(平成19年)に開校しました。本校は松山に置き、新居浜に分校、今治と宇和島にスクーリング会場を設置。県外にも九州から関東まで20以上の学習センターを整備し、全国区の通信制高校に成長しました。また松山本校には、全日制高校のように毎日通学できるコースも設け、多様化する教育ニーズに応えられる体制を整えています。

大病を患い人生観が変わる

 少し話は前後しますが、私にとって人生の転機となったのは学園設立前の41歳の時に大病を患ったことです。医師に直接言われたわけではないのですが、『自分は長生きできない』と感じました。その時、「今まで生かしてもらったのだから、命の限り恩に報いていく」と決意すると同時に「これからの人生は“感謝の心”で世のため、人のために尽くさなければならない」という思いがそれまで以上に強くなりました。この“感謝”という言葉は、当学園の学是や教育方針にも掲げる重要な位置づけとなっています。
 これまで、ここでは語り尽くせないほど多くの方々と出会い、お世話になり学ばせていただきました。その方々や社会に対する恩返しが十分できていないことに申し訳ない気持ちもあり、改めて心より感謝いたします。

岡崎学園(愛知)との合併

医療コンサル勤務を経て帰郷

 私(理事長 河原成紀)は、学園経営を継ぐつもりはありませんでした。と言うのも、学園が設立されたのは私が高校生の頃で、すぐに東京の大学に進学したこともあり、父(創業者・河原学園総長 河原次瞭)が専門学校を運営する印象がほとんどなかったからです。大学卒業後もそのまま関東圏に留まり、医療系コンサル会社に就職しました。高齢化社会の到来が語られ始めた時代で、40~50年先“残る産業”は何か、と考えた時に行きついたのが医療分野だったのです。そこでは、介護施設のエリアマーケティングや投資・事業計画の策定と言った新規立ち上げ業務から、その後の財務支援など、伴走支援に携わってきました。
 1999年(平成11年)、私が29歳の時に父から「学園を手伝ってほしい」と連絡があり、帰郷を決意しました。ここまで育ててもらった恩があり、帰らないという選択肢はありませんでした。
 まず取り組んだのは、父が寄附をして開設された、長野県諏訪市にある介護施設の運営でした。規模は100床、10億円ほどの事業でしたが、赴くと人手不足で事業は滞っており、寝る間を惜しみ資金繰りも含め経営全般を再構築していきました。そこでは前職の経験が活き、ある程度運営を軌道に乗せた1年後、松山に戻りました。

営業、校長職を経て理事長就任

 松山に戻ってからは、まず高校向けの営業活動に従事しました。当時は、当学園と愛媛学園、山本学園の三つ巴でしのぎを削る状況でした。重要だったのは、「いかに選んでもらえる学校になるか」です。興味や関心を持つ高校生に、当学園の魅力と進学先としての価値を丁寧に伝えることを心がけました。専門学校・職業教育は、「手に職をつける」ことが将来の活躍につながる優位性になり、その将来像を提示できる営業には私自身も楽しさとやりがいがありましたし、高校生や保護者、高校の先生の話を聞くことで地元に根ざした職業教育機関の重要性も理解できました。
 その後は、新たな学校設置や校長職に携わりました。設置業務の基本的な枠組みは、前職で手掛けた介護施設とは大きく変わりませんが、学校教育全般に携わる校長職の“責任”は格段に重いものでした。このような経験を経て、2009年(平成21年)に理事長職を拝命しました。

大学教育に関心

 父は、教育事業に携わるなかで『いずれ大学教育にも踏み出したい』という思いがあったようです。しかし大学を一から作るとなると、何十億円という資金が必要となり、リスクも大きい。そこで、既存の大学を買収する方が効率的だと考えていました。関東圏を中心にいくつか候補先はありましたが、さまざまな事情で実現しませんでした。そうした折、「河原が買収できる大学を探している」という噂が流れていたのでしょう。愛知県にある学校法人岡崎学園から相談が持ち掛けられました。
 岡崎学園は1906年(明治39年)に『岡崎裁縫女学校』として開校。その後、改称や男女共学化を経て、人間環境大学およびその附属校の中学、高校を運営していましたが、経営難に陥っていました。歴史ある学校であったため、地元経済界が立て直しに動いたものの再建は難航し、外部の運営に頼らざるを得ない状況になっていました。2010年(平成22年)の年の瀬、事務長と担当者が父を訪ねてきたのです。「現経営陣は総退陣するので、貴学で理事や評議員を人選して、学園を再建してもらえませんか?」という話でした。そして2011年(平成23年)3月、父が岡崎学園の理事長に就任し、運営に携わることになりました。

教職員の意識改革からスタート、合併へ

 いざ岡崎学園の中身を見ると、20数億円の借金があり、中学は新規募集を停止、高校・大学も大幅な定員割れで、年間の赤字額は2億5,000万円にものぼる状況でした。なかにはずさんな経理処理もあり、厳しい処分を下さざるを得ないこともありました。
 立て直すにあたり先ず着手したのは教職員の意識改革でした。父は週に1~2日は愛知に出向き、早朝6時から掃除をして教職員や生徒を出迎えるとともに、教職員に“教育とは何か、学校経営とは何か”を口酸っぱく説き続けたそうです。繰り返すうち、少しずつ耳を傾けてくれる教職員も増えていきました。
 一方、学校の赤字体質を脱却するには、新しい学部を設置するなど抜本的な改革が必要でした。しかし、文科省は経営が厳しい学校から新規事業の認可申請を受け付けません。つまり、岡崎学園は八方ふさがりの状況だったわけです。そこで2013年(平成25年)に河原学園が岡崎学園を“吸収合併”することにしました。
 当然ながら地元の学園OB・OGの一部は事情を知らないので、反発もありました。「岡崎学園の名前が消える、乗っ取られる」という不安があったのだと思います。一番大変だったのは愛知県内の教職員組合員の反対でした。のぼりや拡声器による反対デモや署名活動を行い、署名は12万通にも達しました。ただ、文科省は合併に理解を示し、協議も友好的に進んだ結果、反対署名が提出される直前の2014年(平成26年)1月に認可を取り付け、正式に合併の運びとなりました。いわゆる専門学校法人が大学法人を吸収合併したのは、全国で初めてのことでした。河原学園の学是を加えただけで校名や校訓・教育方針などはそのままにし、歴史ある学校の名残を可能な限り残したことで、地元経済界は安堵したようです。

人間環境大学岡崎キャンパス

学部・学科の“選択と集中”

 『人間環境大学』の看護学部は、学部学科の抜本的な見直しの一環で新設した学部ですが、最初は教員集めに苦労しました。
 しかし、ここでもひょんなご縁がありました。関西の大学で看護学部を設置する動きがあったものの計画が頓挫し、そこで教鞭を執る予定だった方々が「父に会いたい」と訪ねてこられたのです。私たちが看護学部の教員を探していたことを聞きつけたのでしょう。「教育目的や方針が一致しているので一緒にやりましょう。先生も私たちで集めますので」と言うのでお任せしたところ、たちまち50人ほどの教員が集まりました。ここまで揃えば、カリキュラムも十分に組めることから、学部設置と同時に大学院(前期・後期)設置の認可も得ることができました。こうして2015年(平成27年)、愛知県大府市に大府キャンパスを開設し、看護学部と大学院看護学研究科を設置しました。学生募集は順調に進み、卒業生の看護師資格取得率100%の実績も生まれました。このような教育実績が起爆剤となり、キャンパスは活気を取り戻してきました。
 愛知で看護学部の新設と並行して行ったのは既存学科の再編です。人間環境学部は経営、心理、環境、日本文学と4つのコースがありましたが、定員割れでした。そこで2017年(平成29年)に心理学科と環境科学科の2つの分野に絞り学科に昇格させたところ、徐々に学生が集まり始めました。さらに両学科を心理学部、環境科学部に昇格させ、心理学科、犯罪心理学科、フィールド生体学科、環境データサイエンス学科を新設しました。

愛知での実績を活かし松山でも学部展開

 愛知での両学部・学科の実績が表れ始めたことを受け、愛媛で同様の教育環境を整えることにしました。2017年(平成29年)、松山キャンパスに松山看護学部看護学科と大学院を、2022年(令和4年)には道後に新キャンパスを構えて『総合心理学部』、昨年には道後キャンパスに新校舎が完成し『総合環境学部』が始動しました。
 心理学に関しては四国の大学に専門の研究者が少なく、総合的に心理学を学べる学部がありません。近年の日本は“ストレス社会”とも言われ、息苦しさを覚える場面も多いと感じます。学生には“心の健康”を学ぶことで自己理解を深め、コミュニケーション力を高めてより良い人間関係を築くとともに、安全で安心できる社会づくりに貢献する人材に成長していただきたいです。愛知と愛媛に設置されている『犯罪心理学科』は、日本で初めて設置した学科です。欧米と違って、日本では一般的な学問領域ではありませんが、“犯罪そのものを研究する”だけでなく「人が追い詰められない社会をつくるために何ができるか」を探求し、社会に貢献してもらうことを目指しています。
 このように愛知と愛媛で学部・学科の設置ができているのは、教職員が河原学園として求める真の学校教育のあり方や学校経営について理解し、学生や保護者、社会に必要とされる取り組みに尽力してくれた結果です。みんなには心から感謝申し上げます。

2025年4月に完成した松山道後キャンパス新校舎

スポーツとの関わり

プロスポーツチームで地域活性化をめざす

 私は、学園運営と並行してプロバスケットボールチーム『愛媛オレンジバイキングス』の運営にも携わるようになりました。これは専門学校設立につながった新潟の池田氏とのご縁がきっかけです。
 父だけでなく私自身も池田氏と懇意にさせていただいており、常々「教育だけでなく、他の分野を含めた地域貢献が必要ではないか」と話し合っていました。当時、池田氏は日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)の会長を務めており、Bリーグ移行の際に「愛媛にチームを作らないか」と誘われたのです。私は「プロスポーツチームの存在は、シビックプライドの醸成や若者の流出防止につながる」と考え、地域の方々とチーム作りに着手しました。そして、2015年(平成27年)に運営会社を立ち上げ、2016‒17シーズンから『愛媛オレンジバイキングス』としてリーグに参加しました。当学園も、学生によるチーム紹介映像制作や来場イベントの企画運営などで間接的に関わってきました。現在、第三者割当増資によって株式をサイボウズ社が取得し同社がチームの運営の主体を担っています。サイボウズ社の『チームワークあふれる社会を創る』という方向性は、私たちが目指すものと同じであり、当学園も引き続き関わっていきます。
 県内では現在、アリーナ構想が議論されていますが、ホームタウンとするチームがなければこの構想自体が生まれなかったかもしれません。そうした意味では、チームの存在は地域活性化の議論に一石を投じたと言えるのではないでしょうか。

愛媛県表敬訪問(右から2人目が理事長 河原成紀)

“未来富山”の甲子園出場

 昨夏、未来高等学校の富山学習センターである『富山みらい学園』の硬式野球部が初の甲子園出場を果たしました。全校生徒24人中23人が野球部員ですので「野球学校だろう」と思われがちですが、通信制高校の自由度の高さと独自のカリキュラムを組んでいますので、学業面も頑張ってくれています。
 試合当日には地元魚津市民約300人をはじめ、魚津市内の高校3校とOB・OGが混成吹奏楽団を結成して応援に駆けつけてくださっただけでなく、私に「甲子園に連れてきてくれてありがとう」と声をかけてくださいました。選手にとっても、その声援は大きな励みになり、地元との一体感を感じたはずです。この経験は、各自が地域社会へ貢献していく力になると信じています。

多くの地元住民が応援に集結

e‒スポーツ学科の新設

 海外では、e‒スポーツはすでにプロスポーツとして確立されています。プロ選手の社会的地位は高く、専門のコーチやトレーナー、栄養士がつくなど、従来のスポーツ選手と同様の環境で活動しています。一方、日本では社会的地位や認知度はまだ十分とはいえませんが、その分、今後の伸びしろが大きい分野です。
 また、e‒スポーツの大会運営には、選手だけではなく、大会の企画運営、撮影・映像編集、音響・照明など多くの専門人材が関わります。そのような人材を体系的に育成することは市場拡大に不可欠です。このような背景を踏まえ、2024年(令和6年)8月に銀天街に『KAWAHARA e‒SportsStadium』を整備し、e‒スポーツのインフラを整えました。そして昨年4月、『河原デザイン・アート専門学校』に四国初のe−スポーツ学科を新設したところです。

KAWAHARA e-SportsStadium

適切な事業エリアと教育分野の拡大を

幼児教育から高等教育までの縦展開が課題

 少子化の影響で教育業界を取り巻く環境は一段と厳しさを増しています。当学園の強みは、高等教育機関である大学・専門学校、中等教育機関の高校、さらに教育のスタートとなる幼稚園と縦展開を行っていることです。愛知は大都市圏であり、少子化の影響が比較的小さい地域です。この愛知で、当学園の強みである縦軸で一気通貫した展開をさらに拡大したいと考えています。また、大学においては経済学部や法学部など一般的に広く展開されている学部ではなく、ニッチな分野の教育を担うとともに、愛知を先行地域として展開し、良いものを愛媛に持ってくる戦略を取っていきたいです。

海外拠点の設置で高度外国人材の育成を視野に

 人口減少下においては海外展開も進めていかねばなりません。
 実は、1999年(平成11年)から中国の大連で『大連河原日本語学校』を運営していた時期がありました。社会情勢の変化などもあり現在は閉鎖しましたが、日本語検定1級を取得するような優秀な人材が600人ほど来日して大学等に進学し、卒業後も日本や中国で活躍しています。
 海外進出企業は、現地拠点を任せられる日本語が堪能で優秀な人材を求めています。どのような外国人材が求められているか企業ニーズを的確に把握し、単に日本語を教えるだけでなく、専門教育も海外で実施し、来日した時には即戦力として活躍できる高度外国人材を育成したいです。
 候補地をASEAN地域に絞り、ベトナム、ミャンマー、インドネシアの3ヵ国を検討していますが、日本語教育が盛んで日本の文化・エンターテイメントへの関心も高いインドネシアでまずは展開したいと考えています。

地域・企業と連携した取組強化

 当学園では、10年以上前からコマシラバス教育に取り組んでいます。1コマごとの授業の主題や教育目標を詳細に示し学生に事前配布することで、授業や勉強に慣れていない学生でも学習に取り組みやすく、高度な知識・技術を身につけられる体制を整えてきました。
 シラバスを詳細化(可視化)することで、教員も「学生が体系的に修得できる授業はどうあるべきか」や「そのために教材やテキストはどうあるべきか」といった点を深く考えるようになります。その結果、外部との連携機会が増え、これまでに県内のみならず県外の企業・業界団体・自治体などと連携してきました。学生と企業・業界が相互理解を深められる機会を提供することで、より先進的な業界動向や現場の実務を学生に吸収させることができます。学生が設計した家を建てるなどの成果も生まれてきています。“点”ではなく“面”で活動することは、学生や教職員の視野が広がり、なにより地域の活性化には欠かせません。

学生が設計した家を建てるプロジェクト

各校が自立して運営できる体制をめざす

 私の大きな使命は、地域で人材を育てて地域で活躍してもらうことだと思っています。当学園を卒業した約7万5,000人を超えるOB・OGの母校がなくなることは何が何でも避けなければならず、未来永劫残していく“責任”があります。そのためには、各校がしっかりと自立して運営できる道筋を立てていく必要があります。
 一般の企業であれば社長や役員を中心に等質な組織ができあがります。しかし、学校はなかなか面白い組織体で、学校ごとに分野やカラーが異なったりするので、同じ学園であっても他校とは相容れない、といったことが起こります。実際私が入職した時は、学校同士の仲が良好とはいえず、長い時間をかけて少しずつ改善してきました。今後は各校、各課程が自立すると同時に、それぞれが学園全体としての視点も持てるよう教職員の意識改革に努めていきます。
 組織規模が拡大していくなかで、内部の透明性確保はますます重要になります。専門学校では、教職員の業務内容を可視化して、管理者が学生指導に関する助言を行えるシステムを導入していますが、大学や高等学校でも順番に導入を進めています。効率的なシステムで、教職員も働きがいを持って教育にまい進できる組織にしていきます。
 学園設立から昨年で40年を迎えました。在籍学生・生徒数は全体で約8,600人と中四国最大級ですが、これで安泰ではありません。「河原学園で学んでよかった」と言う在校生や卒業生がさらに増えていくよう、教職員一体となって社会のニーズに応えられる学園を作っていく所存です。

学園卒業式の様子

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